【犬抑留所との出合い】

平成 19年 1月11日 掲載

人と動物の共生を目指して仲間とともに新潟動物ネットワークを立ち上げたのは五年前。その後、頻繁に足を運ぶようになった「犬抑留所」を知るところになったのは、今から三十年以上前にさかのぼります。

ある施設で飼われていた犬が処分される事になり、かわいそうに思った母が引き取りました。三歳ぐらいのメスの雑種で「まこ」と名付けました。私が生後半年ほどの時の事です。昭和四十年代、まだ犬の室内飼いは一般的ではなく、まこも庭に犬小屋を置いて飼い始めました。

ところがまこは、鎖でつながれるのを全く好まない犬でした。仕方なく自由にさせると、いつの間にかいなくなる。そして、何ごともなかったように夕飯時には戻ってきました。まだ道端を犬が歩いていても、それほど不思議ではない時代でしたが、その頃毎週のように保健所の犬捕獲車が巡回しており、まこはよく捕まりました。

連れていかれた場所が「犬抑留所」でした。母は巡回車の事を「犬捕り」と呼び、捕まるたびに抑留所に足を運びました。幼かった私は、どうせ家に戻ってくるのだから連れていかなくても良いのにと思ったものです。

でも、役所としては、そうはいかなかったようです。日本では昭和二十五年に「狂犬病予防法」という法律が制定され、徘徊(はいかい)している犬は収容する決まりになっていました。狂犬病にかかった犬に咬まれると命に関わるので、犬は鎖に繋(つな)いだり、逃げないように飼う事、予防注射をする事などが義務づけられています。

それまでの日本では犬を繋いで飼う習慣はなかったので、法律が一般の人に浸透するまでに、ずいぶんたくさんの犬が捕獲されたのだと思います。今でも保健所に迷子で収容される犬はたくさんいます。平成十七年度、新潟県で収容された迷子犬は八百七十二匹、そのうち飼い主が迎えに来たのは五百匹でした。

収容所の冷たいコンクリから最期の瞬間まで飼い主を待ちながら処分される犬がいるのは不幸なことです。いなくなったらすぐに捜す、言葉を話せない彼らのために迷子札をつけてほしいと思います。まこは十三歳まで生き、ある日、姿を消しました。どんなに探しても見つからず、自分の死に場所を見つけたのだと話し合いました。最後まで自由を貫いた幸せな犬でした。

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